「自分は何者か」という感覚
いつ頃からかはっきりとはわかりませんが、ここ最近になってよく「自分は何者のか」という悩みを持つ若い人をよく見かけるようになったと思います。
そういう悩みを言う人の多くは10代~20代前半くらいで、進学や就職を決める時やそれをしている時に「何者かになりたい」という強い焦りを持っているということがわかります。
その「何者」という感覚はどうも今の若い世代特有のものらしく、現在中年世代の人たちが若い時期に「自分らしく生きる」という考えを持っていたものが時代に合わせて変化をしたのかなという感じがします。
そもそも「何者」とは何なのかということを考えると、昔の「自分らしく」という感覚とは似て非なるもののような気がします。
「何者」という感覚は、例えば「カリスマ起業家になりたい」「芸能人になってたくさんの人に存在を知ってもらいたい」といったようなどちらかというと外部からの評価が大切になっているように思います。
昔の「自分らしく」は、会社や学校といった大きな組織に評価される人間になるために唯々諾々として生きるのではなく、自分で自分の行動を決めようという感覚だったので、「何者かになりたい」とは少し趣旨が異なります。
若い人のいう「何者」というのは、もっとふんわりとした「自分とは何か?」というところが出発点になっているので、外部からの評価が必要になってしまうのだろうというふうにも思います。
本当にやりたいことは何を基準に決めるべきか
考えて見れば昔の「自分らしくなりたい」というのは、その一つ前の世代の人たちの価値観として「世間的に普通に生きることが幸せ」という年功序列的な刺激のない人生を推奨していたということへのアンチテーゼだったわけです。
いい学校に行ってそこそこいいところに就職して、それなりの人と結婚して分相応のマイホームを買って子供を育てて老後を迎えるという人生のレールのようなものが決まっていた時代には特に疑問に思わずそのとおりにするのが一番という価値観がありました。
そこから逸脱した生き方として「脱サラ」といったものが流行したわけですが、それで成功した人もいたものの、ほとんどが失敗をしていたりします。
なので今時の「何者か」というのはただ自分がやりたいことをするのではなく、それをして世間に認められるという結果が必要になってくる感覚なのだろうと思います。
そこから考えると「本当にやりたいことが分からない」という感覚は、自分の努力に対しての結果がうまく結びついていないときに起こる感情なのではないかと思います。
なりたいと思う自分に対し、世間的な評価が付いてこない時に「自分は何者なのか」ということを深く悩むのだろうと思うと、自己実現のハードルも年々高くなっているなという感じがします。